技術資料
やわらかサイエンス
仕事を終えた金属鉱山の今~マイントピア別子~(中編)
マイントピア別子は、端出場(はでば)ゾーンと東平(とうなる)ゾーンの2つのゾーンに分かれています。2カ所は採鉱本部があった場所で、本部は、最初は東平にあり、1930年から閉坑までは端出場におかれました。
端出場ゾーンにはマイントピア別子の本館である赤レンガ作りの記念館を中心として、観光坑道(前半は江戸ゾーン、後半は近代ゾーン)、鉱山鉄道、貯鉱庫跡、トンネル、鉄橋、レンガ水路、水力発電所など、いろいろな関係施設を見ることができます。
東平ゾーンは東洋のマチュピチュと称される標高約750mの場所にあります。産業遺産群と自然が調和した観光スポットです。石作りの貯鉱庫跡、索道(さくどう)停車場跡、赤レンガ造りの旧保安本部、インクライン(傾斜面軌道)、石支保のトンネルなどの施設を見ることができます。なお索道は、空中に架け渡したワイヤーロープに搬器を懸垂して旅客・貨物を運送する施設のことです。林業や山岳地帯での建設工事などに今でも利用されています。
煙害は水害までも
別子銅山は、産業の近代化、富国強兵などの趨勢の中での輝かしい操業でしたが、数多くの問題に悩まされ続けました。
別子銅山の主要鉱石鉱物は、黄鉄鉱、黄銅鉱、斑銅鉱、閃亜鉛鉱、磁鉄鉱、赤鉄鉱です。目指す金属は銅ですが、黄鉄鉱や黄銅鉱には多量のイオウが含まれています。鉱石に含まれるイオウは地下から掘り出すと徐々に大気中の酸素により酸化されます。特に銅の製錬では、銅鉱石を火で蒸し焼き(焙焼:ばいしょう)にして硫黄分を除くので、鉱石中の硫黄分が酸素と結合して亜硫酸ガスが発生します。
イオウの酸化の1つ目の鉱害は、鉱石の製錬による煙害(硫黄酸化物(SOx)の排出)です。もともと操業地域一帯は燃料用に無秩序な森林伐採が行われていた地域です。ここにさらに亜硫酸ガスが追い打ちをかけ、周辺をはげ山にしました。そのため台風襲来により斜面崩壊を起こし土石流を発生させ、1899年に別子大水害という死者513人を出す未曾有の大水害を引き起こしました。さらに坑内などに未処理の鉱毒水が大量に流出しました。
そこで煙害対策が取られ、製錬技術の環境対策を進めるとともに製錬場所を鉱山近くの山間部から新居浜沿岸部に移し、さらには瀬戸内海の四阪島に移転し、最終的には新居浜沿岸部の最新設備の施設に戻ることになります。
亜硫酸ガスの煙害対策として、製錬用燃料を木材から石炭への切り替えが進められました。また治山治水として毎年100万本とういう計画的な植林事業が進められました。植林事業は企業経営の視点で行われたそうで、その企業が住友林業となりました。
別子銅山の環境問題に対する事業主体の対応は、住友金属鉱山の関係や郷土の歴史として紹介されていますが、その多くは対策の実施に対する礼賛です。現在の視点では、環境負荷の原因者が対策を行うのは自明なので違和感があります。その点でも資源開発と環境保全に対する考え方の時代の変遷が分かります。
別子銅山の近代化に貢献した人々として3人が別子三翁としてあげられています。広瀬宰平(ひろせ さいへい)氏は宰翁と呼ばれ、支配人として明治新政府に接収されていた銅山の鉱業権を交渉により確保したり、鉱山の近代化を図るなどの功労者で東の渋沢、西の広瀬と言われた人だったそうです。伊庭貞剛(いば ていごう)氏は幽翁と呼ばれ、広瀬の甥で裁判所判事から転職した人で、採掘や製錬での近代化を図るとともに煙害克服のための事業を行いました。鷲尾勘解治(わしお かげじ)氏は黙翁と呼ばれ、企業である住友との経営者として大正から昭和初期にかけて活躍した方ですが、人生の後半は新居浜市の社会教育に尽力しました。
中編では、マイントピア別子と別子銅山の操業による深刻な煙害についても紹介しました。後編では2つ目の鉱害である鉱毒水について見てみます。