技術資料

やわらかサイエンス

仕事を終えた金属鉱山の今 ~マイントピア別子~(前編)

担当:藤原 靖
2024.06

電気は私たちの生活に無くてはならないものです。電気は作るにしても送るにしても使うにしても銅という金属が必要で、銅線が代表です。最近、日本各地で銅線の盗難が多発しているという報道があります。それだけ銅は必要かつ高価なものということでしょうか。
銅は日本では足尾銅山(栃木県)などをはじめ各地の鉱山で採取されていましたが、全ての鉱山で1994年に操業が終了し、現在では海外に依存しています。

銅山に限らず金属鉱山では、地下から有用な資源を得る代償して種々の負の影響を受けてきました。地形改変などに起因した土砂災害、掘削岩やズリの酸化の影響を受けた鉱山廃水による水質汚染、製錬などに起因した大気汚染などです。その中でも明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山鉱毒事件が大変有名です。周辺環境は修復されてきましたが、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。 

マインランド尾去沢、細倉マインパーク、マイントピア別子画像
マインランド尾去沢         細倉マインパーク         マイントピア別子

ところで、銅鉱山だけではありませんが、操業が終わった鉱山の施設・設備をもとにして、テーマパークとして運営されているところがいくつかあります。愛媛県新居浜市の別子銅山のマイントピア別子、秋田県鹿角市の尾去沢鉱山(銅鉱山)のマインランド尾去沢、宮城県栗原市の細倉鉱山(鉛・亜鉛鉱山)の細倉マインパークなどです。
今回は、今なおも鉱山廃水の処理を続ける一方、銅山跡地をテーマパークにして東洋のマチュピチュと言われる別子銅山について紹介します。

マインランド尾去沢
総延長1.7kmの観光坑道があり、砂金堀、天然石堀り、万華鏡作り、パワーストーンを使ったサアクセサリー作り、金箔貼りなどの体験コースがあります。展示施設には、尾去沢鉱山で採掘された鉱石、江戸時代の採掘に関する史料、坑道の模型などが展示されています。

細倉マインパーク
鉱山の坑道跡が観光施設として公開され、当時の作業風景や作業機器などを展示されており、また当時、働いていた人々の様子がリアルに再現されています。また、発破体験や砂金採り体験などもあり、屋外では555メートルのコースで風を切って滑り降りるスライダーパークがあります。

江戸期より283年続いた別子銅山

別子銅山は、四国の瀬戸内海側のほぼ中央にある愛媛県新居浜市の南方の四国山地にあります。新居浜市は古くは別子山村でした。別子銅山は、住友により1690年(元禄3)に別子山村の標高1,000mを超える露頭で、良好な鉱脈を発見して翌年から採掘が開始され、その後の紆余曲折を経て283年間にわたって銅鉱石の採掘が行われました。

別子銅山位置と銅鉱石画像
左:山中にある別子銅山、瀬戸内海沿岸の新居浜市街、瀬戸内海の四阪島製錬所の位置関係
右:別子鉱山の銅鉱石(海洋底玄武岩が変成した緑色片岩に伴うキースラガーの鉱石)・倉敷市立自然史博物館/地学のページ/地質現象のページ/鉱床/鉱床のタイプ・種類/キースラガーホームページより抜粋

新居浜市は愛媛県では松山市に次ぐ規模の町です。四国には新幹線がないので、主たる公共交通機関はJR在来線です。空港のある松山市から1時間、香川県の高松市から1時間余の場所に位置する町です。新居浜市は住友グループの企業城下町で、「工都・新居浜」というそうです。新居浜市は、毎年10月に勇壮な山車が市内を練り歩く新居浜太鼓祭りが有名です。新居浜太鼓祭りは四国三大祭りの1つですが、山車同士がぶつかりあったり、昔は石を投げ合ったりするので、日本三大喧嘩祭りの一つとしても知られています。

別子銅山の鉱床は、太古の昔、この地がまだ海底にあった時代に海底火山活動によって銅を含んだ海底熱水鉱床により形成されました。形成された鉱床は、プレートの沈み込みで変成作用を受け、玄武岩起源の緑色片岩などを伴う引き延ばされた状態で分布しており層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)と呼ばれています。またキースラガーは、別名、別子型鉱床とも言います。

別子銅山の鉱床は新居浜中心部から15~20kmに位置する本山鉱床、筏津鉱床、余慶鉱床があります。鉱床は長さが1,800m、厚さが2.5mで海抜約1,200mの地帯から海抜下1,000m以上までに広がった世界的にも大規模な鉱床です。これらの鉱床を求めて立坑、横坑、斜坑が掘られており、最深部は海面下1000mにあります。

別子銅山の鉱床と坑道と製錬所などの操業拠点の位置関係図
別子銅山の鉱床と坑道と製錬所などの操業拠点の位置関係

別子銅山の銅生産は、出鉱量は推定では3,000万トンで、産銅量は約65万トンでした。単純計算でも銅の品位は2.2%と非常に高品位な銅山であったことが分かります。江戸時代には品位が10%を超える極めて高品位であったそうです。
しかし高品位の鉱床も採掘場所が海面下1,000mの地中深部となり、地圧の増大による坑道の崩落、地熱による作業環境の悪化、銅品位の低下などで採算が悪化して、1973年に閉山となりました。

前編では、仕事を終えた鉱山の今について、いくつかの鉱山跡について紹介しました。また今回注目している別子銅山の概要について紹介しました。中編では、マイントピア別子と別子銅山の操業当時の深刻な煙害について紹介します。

ページの先頭にもどる