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やわらかサイエンス
世界遺産・石見銀山(前編)
日本の世界遺産は現在25件あり、最新の北海道・北東北の縄文遺跡群の登録については、拙文でも紹介しました。世界遺産は、文化と自然の2つのジャンルに分けられていますが、文化と自然が密接な関係にある世界遺産は数多くあり、石見銀山(石見銀山遺跡とその文化的景観)もその1つです。
今回は、鎌倉時代末期に発見され、最盛期には世界の銀の約3分の1を産出したと言われる世界遺産・石見銀山について紹介します。
■銀山としての歴史
石見銀山は、島根県大田市大森町にあります。鉱山の発見は、1309年(延慶2年・鎌倉末期の第10代執権北条師時の時代)に大内弘幸が北斗妙見大菩薩(北極星)の導きによって発見したという伝説が伝わっています。山の頂上が光ったそうで、露頭掘りで鉱脈が露出して天然銀が光ったと考えられています。
本格的な銀の採掘が始まったのは、1500年代になってからです。博多の大商人、神屋寿禎という人が、やはり海上から山が光るのを見てということになっています。
採掘の本格化は、新しい精錬方法が導入されることで進展しました。1533年に「灰吹法」と呼ばれる精錬方法を朝鮮から技術者を博多に招いて定着させたそうです。それまでは純度の高い鉱石を朝鮮に運んで精錬していたそうです。
灰吹法
他の岩石成分と混じった状態の銀鉱石に銀と相性が良い鉛を加えると、銀は鉛との合金になります。これを貴鉛(きえん)といいます。次に獣骨や松葉を焼いた灰を敷いた器の上に貴鉛をのせ、空気を送りながら加熱すると、鉛が酸化して酸化鉛になります。溶けた金属鉛や金属銀は表面張力が強いため灰をはじきますが、酸化鉛は表面張力が弱く灰の中に染み込みます。一方酸化しにくい銀は金属銀として灰の上に残ります。この工程を繰り返せば銀の純度が高まります。灰吹法は、銀だけでなく金にも用いられます。
■銀山としての歴史
石見銀山は、島根県大田市大森町にあります。鉱山の発見は、1309年(延慶2年・鎌倉末期の第10代執権北条師時の時代)に大内弘幸が北斗妙見大菩薩(北極星)の導きによって発見したという伝説が伝わっています。山の頂上が光ったそうで、露頭掘りで鉱脈が露出して天然銀が光ったと考えられています。
石見銀山は、1600年代になると徳川幕府によって鉱山開発が進み発展します。幕末には長州戦争で支配が幕府から長州藩に移り、明治維新で民間運営になります。
石見銀山は銀だけでなく銅も産出するので、明治以降は銅の採掘が主流になります。その後、鉱山としての採算性などの問題で鉱山経営が難しくなり、1943年(昭和18年)の水害による坑道水没で閉山に至っています。現在も多くの坑道は水没した状態にあるそうです。
石見銀山と並んで有名な鉱山に佐渡金山があります。正確には佐渡金銀山と言います。佐渡には55の鉱山があり、佐渡金銀山はその総称です。個々には、〇〇金山、〇〇砂金山、〇〇銀山などがあります。佐渡金銀山は、12世紀末から砂金採取などの歴史はありますが、1500年代の後半から支配していた越後の上杉景勝により再開発が行われて発展しました。
17世紀からの400年で金78トン、銀2330トンを算出したそうです。佐渡の銀山には、石見銀山から「灰吹法」が伝わっています。佐渡金銀山も世界遺産登録を目指しています。
銀の価値
江戸時代には、小判、丁銀、豆板銀などの金銀貨が流通していました。日本も諸外国と同様に金1対銀15の価値でした。つまり金10gの小判は銀150gの割合でした。時代が進み、経済的な政策で金銀貨の純度が落ちる一方で、貨幣をたくさん流通させるために幕府はこの価値の比率も変え、江戸中期には金10gの小判は銀100g、幕末には金10gの小判は銀50gとしました。そこで諸外国は、この割合に目をつけ、銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨を持ち帰ったため、日本からの金の流出が生じました。
ところで江戸時代を舞台にした小説、落語、講談などでは、ねずみ捕りの石見銀山が出てきます。この場合の石見銀山は、殺鼠剤という毒物で、成分は亜ヒ酸です。こちらの産地は石見銀山ではなく、同じ島根県ですが笹ケ鉱山でとれる硫砒鉄鋼を焼成して作られたものです。商品の宣伝として石見銀山のネームバリューにあやかったもののようです。
前編では石見銀山の鉱山としての歴史をみてみました。石見銀山は、銀の産出量も多い銀山ですが、息の長い銀山でもありました。中編では、石見銀山の発展の鍵となった地質と鉱脈について紹介します。