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やわらかサイエンス

地底の森ミュージアム -地層の下に水田遺跡-(前編)

担当:藤原 靖
2019.07

ミュージアムにもいろいろありますが、今回は「地底の森ミュージアム」という少し変わったミュージアムについて紹介します。地底の森ミュージアムは、宮城県仙台市にあり、「世界中でここだけ 2万年前の氷河期の世界がよみがえる」というテーマを掲げた仙台市富沢遺跡保存館です。

仙台駅から地下鉄南北線で6つ目の駅である長町南駅から徒歩5分の場所にあります。駅から歩いて直ぐの入口に立つと鉄筋コンクリート製の楕円柱状のユニークな建物(地上地下ともに1階)が見えます。

左:地底の森ミュージアム付近の地図画像、右:地底の森ミュージアム入口から建物をみた遠景画像

■地底の森ミュージアム

地底の森ミュージアムのある富沢遺跡は、丘陵と河川で囲まれた場所にあります。この場所は、標高の高い地形である丘陵や河川の自然堤防の背後にある標高の低い地形で、「後背湿地(こうはいしっち)」と呼ばれる地形です。当時の標高は10m前後であったそうです。

富沢遺跡は、1982年に開始された地下鉄建設などを目的とした百数十次にわたる試掘調査で、順次発見されてきました。遺跡の発見は、地表に近い層から順に、中世から近世にかけての水田跡、奈良・平安時代の水田跡、古墳時代の水田跡、弥生時代の水田跡と木製農耕具、旧石器時代の樹木と石器群などです。
なんと、富沢遺跡一か所から、弥生時代から始まる東北地方の稲作の歩みと旧石器時代の環境と人びとの暮らしを知ることができます。

■後背湿地

ここで後背湿地について少し紹介します。自然堤防の背後にできる後背湿地は、土壌水分の多い土地です。河川が氾濫すると水と一緒に土砂が運ばれます。石などの大きなものは直ぐに沈みますが、粘土のような粒子の細かなものはゆっくり広がって堆積します。洪水が繰り返されると河川の近くには砂礫で自然堤防ができ、その先には水が溜まりやすく渇きにくい低い土地(湿地)ができます。

後背湿地は、土壌水分が多い、河川が近く水路で水を利用できる、粘土質なので養分が多いなど、水田に適した場所です。そのため昔から水田として利用されてきました。ところが、都市化が進むにしたがって水田をやめて工場や倉庫などが建設され、さらに住宅地へと変わってきています。最近の豪雨災害で、住宅地が浸水したり家屋が流されたりする被害を受けている地形の1つでもあります。

左:後背湿地の様子、右:後背湿地の模式図と説明の画像
国土交通省・国土地理院ホームページ・下流部の地形・後背湿地より抜粋

■弥生時代に東北地方で稲作

富沢遺跡の水田遺跡は、弥生時代から近世までの水田跡が見られることが特徴的です。特に弥生時代の水田跡は、東北地方での稲作の開始を解明する上で貴重な資料となっています。ここで少し東北地方の稲作の黎明期について紹介します。

長い間、「東北地方北部に弥生時代はなかった」とされてきました。しかし1981年に青森県南津軽郡田舎館村の国道路線内で発見された垂柳遺跡(たれやなぎいせき)により、東北地方北部にも弥生時代の稲作文化が存在していたことが証明されました。

青森県の八甲田山の山麓には、十和田湖カルデラの火山活動で噴出した膨大な量の軽石や火山灰が厚く堆積しています。垂柳遺跡は、この堆積物が洪水により流出して堆積し、埋没した水田地帯を発掘したものです。遺跡からは弥生式の土器や炭化米が発見されました。

垂柳遺跡でユニークなものが2つあります。火山噴出物の白っぽい層を削り取っていくと黒い格子状のものが出てきます。これは水田の畔(あぜ)です。畔の間隔から当時の水田の1枚は現在よりもかなり狭いことが分かっています。また、たくさんの足跡が出てきます。大人と子供の足跡で、家族全員で農作業をしていたことが分かります。

垂柳遺跡のまるで時間が止まったままのような状態は、南イタリアのナポリにあるヴェスヴィオ山の噴火で火山灰によって埋もれた都市、ポンペイ遺跡のようですね。

左:垂柳遺跡の水田跡、右:垂柳遺跡の水田のたくさんの足跡画像
青森県南津軽郡田舎館村埋蔵文化財センター田舎舘村博物館ホームページより抜粋(2019年7月当時参照)

地底の森ミュージアム -地層の下に水田遺跡-(前編)はここまでです。
後編では富沢遺跡の水田跡の特徴と湿地について紹介します。


※資料等最終参照日:2019年7月

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