やわらかサイエンス

世界遺産・石見銀山(後編)

第140回担当:藤原 靖(2022.9)

中編では石見銀山の発展の鍵となった地質と鉱脈についてみてみました。後編では、石見銀山の掘削方法と製錬方法について紹介します。


- 掘削方法 -

鉱山開発の初期は、地表に露出した鉱石を掘る「露頭掘り」から始まり、「露天掘り」という地表から穴を広げて掘り進める掘削が主体でした。その後、鉱脈の調査が広がるとともに地中へと掘削が進んでいきました。トンネルを掘って地下を掘り進む「坑道掘り」が主流になりました。
石見銀山に多く残っている坑道は、明治までは間歩(まぶ)と呼ばれていました。石見銀山にはたくさんの間歩がありますが、地名や所有者などの名前がつけられています。発見されている坑道は900にもなるそうですが、一般公開されている間歩は、坑道600mの龍源寺間歩で、その坑口から160mが見学路として公開されています。


間歩の入り口、龍源寺間歩の坑口、ひおい坑

左:間歩の入り口(人がやっと入ることができる程度の大きさ)
中:龍源寺間歩の坑口(人が往来できる最低限の空間が確保されている)
右:龍源寺間歩の中の鉱脈を追って掘られた「ひおい坑」

坑道からは、鉱床の状況に応じた採掘方法や採掘技術の変化をうかがい知ることができるそうです。古い坑道は、鉱脈の良い部分を追いかけながら掘り進める樋追い(ひおい)というもので、人が入ることができる程度の空間を掘り進めています。さらに深く、広く掘るためには通路や水抜きが必要となるため、横相(よこあい)と呼ばれる水平坑道を掘って枝坑道を作りながら鉱脈を掘り進みました。
掘削方法は、槌と鑿を使った人力です。鉱脈部分だけをできれば採取したいので、なるべく他の部分を掘りません。そのため、人が作業できる最低限の空間を掘削しました。採取した鉱石は人が集めて担いで坑道の入り口まで運びます。坑道は真っ暗ですから、照明が必要です。この時代は、懐中電灯としてサザエの貝殻に油を入れ、燈心を差して火を灯したものを使っていたそうです。目が慣れるとは言え、一部分がやっと明るい程度の中での作業の過酷さが想像されます。


採掘技術を紹介した絵
槌と鑿による掘削       鉱石の運搬           支保の構築

人の往来が多い坑道は広くする必要があります。そこで坑道を安全に保つため、木材で支保を作りました。製錬にも木材を使いますが支保にも多量の木材を使用します。そのため石見銀山周辺の山は木材の伐採が進み、いわゆるはげ山だったそうです。
坑道や掘削箇所では水没しないように水をかき出して排水しました。桶で汲み出し、竹で作ったポンプを使って汲み上げていたようです。鉱山での作業は全てが重労働です。


採掘技術を紹介した絵
  桶での水の汲み出し        ポンプを使った水の汲み出し

- 製錬方法 -

掘り出した鉱石は、不純部や異なる鉱石が混じった状態です。そこで目的とする金属を取り出す作業が始まります。これを製錬と言います。よく似た言葉で精錬がありますが、これは特定の金属の純度を高める作業のことです。
製錬の工程は、選鉱という鉱石の選別から始めます。石見銀山では、砕く工程では、要石(かなめいし)と呼ばれた石の上に鉱石を置いて、粗い砂程度の大きさまで砕きます。砕いた砂状の鉱石をゆり盆という容器に入れて水の中で揺らして比重の重い部分と軽い部分を選別する比重選鉱を行います。重い銀が多い部分は、ゆり盆に溜まり、軽い部分は水とともに除かれます。川で砂金をとる時にパンニング皿という道具を使って、水の中で砂金と砂を選り分けるのと同じです。
選鉱した鉱石は、灰吹法で紹介した加熱して金属を取り出す溶練(ようれん)の工程に移ります。
灰吹法では、鉛を使用するため酸化鉛の粉塵を吸い込んだ作業員は急性または慢性の鉛中毒を発症したそうです。鉱山での労働は、粉塵などの多い環境での重労働も重なって当時の鉱夫は短命であったそうです。30歳まで生きられた鉱夫は、尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをしたという話が残り、大森町には亡くなった多くの鉱夫の慰霊のための寺院が多数建てられていたそうです。
また、佐渡金銀山では鉱夫として罪人が使役されていましたが、石見銀山ではそのようなことはありませんでした。



選鉱に用いられたゆり盆、石見の五百羅漢
選鉱に用いられたゆり盆                 石見の五百羅漢*
*18世紀中頃、銀山の採鉱で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために彫像されたもの

世界遺産・石見銀山は如何でしたでしょうか。極東の島国から世界の銀市場を席捲した銀山が石見銀山です。そこには人とお金と先端技術が集まりました。世界遺産・石見銀山は、多くの人たちの夢と苦労と喜びを感じ取ることができる場所です。